交点と境界ー視点の移動
2026年 "どこかでお会いしましたね" 美術と哲学の対話Ⅱー翻訳ー 出品

距離と境界―備忘録として
本来壁に掛ける絵画を今回実験的に床に設置してみました。
そう決めたものの、制作に入る前に過去の人物像作品を試しに床に設置してみるとどうにも寝ているか遺体にしか見えない。私は単に人の存在を表したいのであって、決して横たわっているとか死んでいるとか特定の状態の人物を表現したいわけではない。これは困った。
同じ絵が壁に掛けられた時と床に置かれた時とどうして見え方がこうも違ってしまうのか。
そもそも絵画は、壁画、天井画はたくさんあるが“床画”というものはあまりない。あるとしたら抽象的・装飾的なデザインだったり、ギリシャ・ローマのモザイクだったり。
床に絵(具象、特に人物)を置かない、描かない理由の第一は踏んづけてしまうことへの抵抗感。そしてもう一つは絵画と観る人の距離にあるのではと考えます。
壁に掛けられた絵、あるいは障壁画を、そこに描かれている人物画や風景画を人は風景として水平に見ます。人は基本立って前を向いている状態がデフォルトなのです。鑑賞者は立っている位置から壁の絵を自分の前に見えている“向こうの風景”として眺めます。
天上画を、そこに描かれた天使や龍を人は空の絵として垂直に見上げます。鑑賞者は自身が居る地上から天を、地上から“離れた世界”を眺めます。
しかしながら床に絵を設置した場合、鑑賞者も同じ床にいるのですから同じ世界、同じ“此処”にいることになります。向こうを眺めるわけではなく、“此処”と離れた世界を眺めるわけでもない。“此処”から“此処”を眺めることはできないのです。床に設置した人物画が寝ている人あるいは遺体に見えてしまうのは、鑑賞者と人物画が同じ世界に存在しているため距離が近すぎて眺めることができない、同じ場所にあるものとして見ることしかできないからです。
では床に設置した人物象を眺めるためにはどうしたらいいか?距離を作るしかありません。ホテルや百貨店の吹き抜け空間の床でしたら2階・3階から地上を眺めることができますが、展示室にはそんな天井高はありません。(追記:それはそれで転落現場に見えてしまうか?)
物理的な距離が取れないなら心理的な距離を取るしかありません。
そこで浅知恵を働かせた結果、そうだ水面にしよう! と思いつきました。池やプールという設定なら人物は泳いでいるか地上に立っている人のリフレクションに見えるからです。
今回、人物像と水を想像させるモチーフをそれぞれ3枚、計6枚の絵画を床と壁に3枚ずつ設置しました。この作品は結果的に期待した効果があったとは言えませんでしたが、普段なら考えない思索を巡らす良い機会となりました。
・体験型鑑賞会にて
思いがけない発見もありました。期間中に体験型鑑賞会があり私の作品も一般の鑑賞会参加者に自由に感じたことを述べて頂きました。その鑑賞者のお一人が壁に掛けられた人物画を指して、「グリッドが歪んでいるので水の中のようだ。まるで自分が水中にいて地上に居る人を見ているような錯覚を感じる」とお話し下さいました。作者本人が無意識に考えていたこと、言語化できていなかったことを見事に言い当てて頂きました。
「交点と境界」シリーズのテーマは
“居るの?いないの?いるならどこにいるの?”
なのですが、それに
“どこからどこをみているの?”
が今はっきりと加わりました。
・額縁について
幅10cm、厚み1.5cmの板を彩色して枠を取り付けました。床に設置するに際し作品の高さが欲しかったからです。でも“額縁”にしたくなかった。作品の一部にしたかった。そこで枠と絵画の面を段差なくぴったり合わせました。
そうしますと、額縁でもなく、作品の一部とも言い難いこの簡易な枠がまるで日本家屋の和室と縁側と庭の“縁側”のような内でもなく外でもない境界(あわい)のはたらきを担っているのに気が付きました。
2026年4月 Tono